【大切にしたい対話の本質】鷲田清一さんの「対話の可能性」より

「対話」という言葉を聞くことが増えました。

「私の組織(地域)には対話が必要だ」
「対話の機会をつくろう」
「対話を通して課題解決を目指そう」

私自身もここ5年ぐらい「対話」について考えたり、意識して場づくりをしています。
キャリアカウンセリングを行う際も「対話」ベースです。
しかし改めて「対話」とはなんでしょう。
わかるようでわからない、なんだかふわっとしたものに感じます。

表題の鷲田清一さんの「対話の可能性」の写真がスマホから出てきました。
以前せんだいメディアテークに行った際、感動して撮っていたようです。
少し長めですが、対話の本質を表す素敵な文章なので、本文そのまま引用させていただきます。

対話の可能性

 人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

 対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること。それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

 「何かを学びましたな。それは最初はいつも、何かを失ったような気がするものです」(バーナード・ショー)。何かを失ったような気になるのは、対話の功罪である。他者をまなざすコンテクストが対話の中で広がったからだ。対話は、他者へのまなざし、ひいてはわたしのわたし自身へのまなざしを開いてくれる。

 対話は、生きた人や生きもののあいだで試みられるだけではない。あの大震災の後、わたしたちが対話をもっとも強く願ったのは、震災で亡くした家族や友や動物たち、さらには、ついに“損なわれた自然” をわたしたちが手渡すほかなくなってしまった未来の世代であろう。そういう他者たちもまた、不在の、しかし確かな、対話の相手方としてある。

せんだいメディアテーク館長 鷲田清一

引用:せんだいメディアテーク 対話の可能性より

 

私は対話の本質、人の本質に触れる美しい文章だと感じました。

そもそも人と人が完全にわかりあうことは不可能だという立場に立つこと。
対話というのは他人と同じ考え、気持ちになることが目的ではなく、他人と自分の違いを分かること。
それが対話の原点なのだと感じました。

私たちが暮らしてきた家、学校、職場という場所には「理解し合えるはず」「みんな一緒に」という前提が少なからず漂っているように感じます。その前提は耳触りが良く一見よいものに見えても、人と人が「ともにいられる」場所、わかりあう可能性を閉じていってしまう。
反対に「理解しえなくて当たり前」という前提に立つことは一見、孤独で悲観的に見えるかもしれませんが、人と人がわかりあう可能性を残すことになる。

私がキャリアカウンセリングを通して多くの方と内省を共にし感じることは、人というのは本当に多面的・多層的な立体的存在で、同じ人の中にも矛盾や葛藤がいくつも存在しているということです。一人ひとりの存在がそれだけ多様なのだから、みんな違うことが当たり前で、他人のことを完全に理解することは100%不可能だと断言できます。

しかし不思議なのは、普段の暮らしを送っていると「理解し合えるはずだ」という前提にだんだんと移りかわっていくことです。そんな前提に立っているとき、他の誰かに自分が理解できない行動を取られたり、協力的でない行動を見ると、戸惑い、ときに怒りを覚えたりします。

だからこそ対話の場に立つときは、改めてこの「理解しえなくて当たり前」という前提にチューニングすること、そこから少しずつ互いを分かりあおうとする営みに入ることが大切だと感じます。

鷲田さんが最後に触れていますが、私たちが「対話」できる相手は目の前の人だけではありません。過去の人々、未来の人々、自然、動物、もの、、、あらゆるものと理解しえない前提に立ちながら分かりあおうとする営みが対話とされています。
そう考えると時代も、存在の仕方も超えた営みとしての「対話」の可能性の深さと広さにぞくぞく、わくわくします。

鷲田さんのこの文章は、「困ったときここに立ち返りたい」と思う珠玉の言葉でした。
自分の備忘録も兼ねて、書かせていただきました。

また別記事で触れるかもしれませんが、対話に関しては物理学者デヴィット・ボーム氏の『ダイアローグ』、井庭さん長井さん共著の『対話のことば』も私のバイブルです。ご参考まで。